序章:朝から走るっておかしくないですか?
「朝ランしてきた」
たったこの一言が、一般人とランナーを分ける境界線だと思う。
だって、朝5時に起きて1時間45分走るんですよ?
普通に考えたら狂気。
でも、ランナーの中ではこれが「ゆるラン」。
軽めの日。リカバリーの日。
“朝のルーティン”で片づけられる。
一般人「いやいや、1時間45分走って“ゆるい”ってどういう世界?」
でも、これが我々ランナーにとっては「普通」なんです。
脂肪を燃やすため、心拍を抑えて、汗を流す。
その裏にはちゃんとした理屈がある。
第1章:コップ一杯のアクエリアスで出発する
朝ランのルールはシンプル。
「何も食べずに走る」。
食べたら糖が使われてしまう。
脂肪を燃やすためには、体を“飢餓モード”にして走るのがポイント。
だから、朝起きて飲むのはアクエリアスをコップ一杯(約350ml)。
それが全エネルギー源。
一般人「いや、それ命の最低限ラインじゃん。」
さらに走るときも、500mlのアクエリアスを1本だけ持って出る。
つまり、走っている間に摂る糖分はこの一本だけ。
ハーフマラソンに近い時間を走るのに、
補給がアクエリアス1本。
一般人「もう実験だよねそれ。」
でも、これが脂肪を使うランニング。
糖が足りない分、体が「じゃあ脂肪燃やすか」とスイッチを入れる。
理論上、最高の燃焼モード。
第2章:1時間45分の“ゆるラン”は全然ゆるくない
ペースはキロ7分。
1時間45分走ると約15km。
一般人「いや、15kmって普通に競技だよ!?」
でも、ランナー的にはこれは「軽め」。
速くない。心拍も上げない。
“体脂肪にやさしいペース”というやつだ。
この1時間45分で燃える脂肪の量は、およそ70〜80g。
だいたいハンバーグ1個分。
一般人「その努力でハンバーグ食わなきゃ済む話では?」
たしかにそう。
でもランナーはそれでも走る。
“食べないで我慢する”より、“走って燃やす”ほうが性に合っている。
それが快感になる人種。
第3章:それでも痩せない理由
脂肪を70g燃やした。
理論上は確実に痩せている。
でも、体重計にはほとんど変化がない。
むしろ夜には元通り。
一般人「いや、走る意味どこいった?」
理由は単純。
体は“脂肪を守るようにできている”からだ。
エネルギーが減ると、体は「次の危機」に備えて脂肪をためようとする。
結果、昼頃になると猛烈にお腹が空く。
「今日のランでハンバーグ1個燃やしたし、1個ぐらい食べてもいいよね」
→ その瞬間、すべてチャラ。
一般人「それもう循環してるだけじゃん。」
でも筋肉は確実に強くなっている。
心肺も安定し、持久力も上がる。
だから痩せなくても“速く”なる。
第4章:ハードトレーニングは痩せる
一方で、インターバル走や閾値走などのハードトレーニングをすると、
体重はみるみる落ちる。
理由は簡単。
食べる体力がなくなるから。
消化器官に血流を回す余裕がない。
走り終わったあと、食欲が湧かない。
「もう何もいらない…」という状態。
一般人「いや、そこまでして走る必要ある!?」
でもその状態こそ、最強のダイエットタイム。
摂取が減り、消費が多い。
脂肪が減る。タイムも上がる。
ゆるランは脳が“食べろ”と命令する。
ハードランは体が“もう無理”と止める。
どっちも極端。
でも痩せるのは後者の方。
第5章:ランナーの世界は常識が通じない
ここからが本題。
ランナーの世界は、もはや常識の外側にある。
朝5時から走る。
15km走って「軽め」。
仕事前に汗だくで、体脂肪の話をする。
一般人「そのテンションで出勤するの!?
ランナー同士の会話もおかしい。
「今日は調子悪くてキロ5しか出なかった」
一般人「いや、それ十分速いから!」
「昨日は30km走ったから、今日は回復ジョグ」
一般人「ジョグで10km走るな」
「今日は糖を使い切るまで走った」
一般人「それ医療ワードでは?」
第6章:狂気の中にある理性
走ることは一見、狂気に見える。
でも本質は理性だ。
体の仕組みを理解し、
自分の限界を制御して、
“燃やす”ことを計算している。
アクエリアス1本で走るのも、無謀じゃない。
脂肪を使う練習をして、
レースで最後まで走り切るための準備。
一般人「いや、それを“準備”って呼ぶのもどうかしてる。」
でも走り終えたあとの静けさを知ってしまうと、
もうやめられない。
世界が澄んで見える。
呼吸が整い、思考が透明になる。
汗と疲労の中に、理屈を超えた“満足”がある。
終章:それでも走る理由
結局のところ、
脂肪が燃えるとか、痩せるとか、
そんなのはどうでもよくなる。
走っていると、
頭の中が空っぽになって、
「生きてるな」と思える瞬間がある。
一般人には理解されないだろう。
でも、走る人にはわかる。
一般人「いや、わかりたくないわ。」
朝から1時間45分走るなんておかしい。
でも、その“おかしさ”の中にこそ理性がある。
走るとは、狂気と理性の境目を楽しむ行為なのだ。

